
利尻島が近づいた


ペシ岬 会津藩士の墓



文化4年(1807年) ロシア艦隊が幕府の統治下に置かれていた利尻島を襲撃した。
文化5年(1808年) 幕府は会津藩に北方警備を命じた。
利尻島には252名の兵士が駐屯した。病死や事故で多くの兵士が落命した。
江戸時代から幕末に至る1800年代にはロシアが南下して蝦夷地北海道に脅威を与えており、江戸幕府も警備を強化せざるを得なくなった。明治維新後もロシアの南下政策は変わらず、約100年後の1904年(明治37年)の日露戦争に繋がる。
会津藩は幕末の北方警備から京都守護職から戊辰戦争まで、幕府にとって重要な役割を果たし、その時代の日本の国防と秩序維持に大いに尽力した。幕末に京都守護職として新撰組の後ろ盾となったことから薩長などの反感を買い、戊辰戦争など最後まで幕府に忠誠を尽くしたことから、幕末から明治維新にかけて筆舌に尽くしがたい辛苦を受けたことを忘れてはならない。


利尻岳 沓方方面より
3年前に登頂した

